SSブログ

Mahler/Sym9 [交響曲(マーラー)]

マーラーの第9は、本当に名演奏、名録音が多いです。「マーラーの最後の(完成された形の)交響曲」というだけでなく、19世紀的な概念での、ほぼ最後の交響曲ということもあるでしょうし、そもそもその曲想(大規模な両端楽章がいずれも緩徐楽章であり、静かに終わる)の終末・終結感により、演奏するほうも、聴くほうも特別な心持ちにならずにはいられません。

何人かの指揮者が、特別な機会にこの曲の演奏を行い、録音を残しているのも、この曲の特殊性をいっそう際立たせています。古くは、第2次大戦前夜、ウィーンをあとにする直前のワルターから、ベルリン・フィルに客演した機会に取り上げたバルビローリやバーンスタイン、珍しくライヴ・テイクを残したカラヤンなど。そして、この人にとっては最後の録音になりました。

マーラー:交響曲第9番

マーラー:交響曲第9番

  • アーティスト: チェコ・フィルハーモニー管弦楽団, マーラー, ノイマン(バーツラフ)
  • 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
  • 発売日: 1995/12/16
  • メディア: CD

ライプツィヒ時代の何曲か、1980年代の全集に続く3度目のマーラー・ツィクルスは、第8番と、1995年6月の録音予定が流れてしまった第7番が未完に終わっています(以下も含め、事実関係はジャケット解説による)。第7番の録音が流れたあと、ノイマンの強い意向でレコーディングセッションが急遽組まれたということです。そして1995年8月21日から28日におけるこの曲の録音直後の9月2日、彼はウィーンで他界します。

ノイマンから強い希望が出されたと言うのは珍しく、さらにセッション中いつもはあまり聴かないプレイバックをよく聴き、最終楽章について「完全に満足した」というコメントを残したあたりにも、いっそう因縁めいたものを感じます。彼はやはり、自分について何か感じるところがあったのではないでしょうか。

しかしいっぽう、そういった背景を前提にしてこの録音が聴かれることを、ノイマン自身は望んだだろうか?という疑問はあります。マーラー指揮者は、交響曲全集の録音を成し遂げた人だけでも両手に余ってしまうご時勢ですが、その中でも、マーラーの人生とか、指揮者の想いとかより、純粋に楽譜に書かれた音楽が鳴ることを望んだ最右翼のひとりが、ノイマンではないでしょうか。

第1楽章冒頭、いろいろな演奏・録音を聴いた方は食い足りないかもしれないほど、平穏です。どこかの声部を極端に強調したり、テンポを大きく揺らしたりする行き方とはちがい、どちらかと言えば淡々と曲が進んでいきます。そう、あくまで「どちらかと言えば淡々と」なのであって、テンポはやや速めですが決してせせこましくはありません。死を予期していたかのような数々のエピソードとは正反対の、躍動感・生命力あふれる演奏。これまでこの曲を、マーラーの死の影を感じながら聴いていた-かえって第10より死のイメージを強く感じていた-ことが、間違っていたかもしれない、と感じます。

第2楽章も生き生きとした踊りになっています。つい、スラヴ舞曲を連想してしまいました。それにしてもチェコ・フィルの弦の音は太く、力強いですね。「木管が優秀になった」というノイマンの発言があり、確かにそうだと思いますが、つまりは、弦はもともと優秀、ということでしょう。

第3楽章は前2楽章と反対にテンポは抑え目ですが、躍動感はいっそう高まっています。緩急や強弱など多くのコントラストをつけてコーダの終結に向かって崩壊直前まで突っ込んでいっても、書き込みの異様に少ないスコアどおりに淡々と進んでいっても解釈として成立する、間口の広い曲だと改めて感じました。

こまかいことですが、第4楽章を最初に聞いたとき、冒頭の音に、Asの響きを強く感じました。たとえていえば、変ホ長調が持っている独特の音色のようなものを、このAsに感じたのです。理由はよくわかりません。単に音程がいい(そろっている)、ということかもしれないし、前の楽章の最後のイ短調の印象が強烈だからかもしれません。本当に何でだろう??

粘らない曲想が時にそっけなく感じることもありますが、強弱の差はしっかりついており、また全体にルバートが少なく、しっかり構造が感じられて、非常に練られた録音であるといえると思います。ホールの残響を良くひろっているせいか、弦の音がいっそうふくよかに感じられます。

優秀な録音のおかげで、ひとつひとつの楽器の音が鮮明に聞こえます。録音され、繰り返し聴かれることを前提とするなら、やはり練られたスタジオ・セッションがよいなあ、と実感しました。最近のオーケストラ録音、特にメジャー・レーベルは「ライヴ」と称した演奏会等での録音の方が多いようです。バーンスタイン@DGあたりが走りでしょうか。リハーサルやGP(ゲネラル・プローべ、総練習)も含めて一連の録音のうちベスト・テイクをつなげているようですが、こうなるともはや「ライヴ」とは呼べないのではないでしょうか。

戦前の録音はどうせ一発勝負だったので、「ライヴ」がそこそこありますが、60~70年代は減少しました(ただし近年、発掘・発売されている放送録音は多くあります)。ライヴ録音そのものが少なかった時代には貴重でしたが、逆に今はスタジオのほうが希少価値。巨匠の残してくれたマーラーの世界をじっくり楽しむこととしましょう。

トラックバックは、mozart1889さんのゲヴァントハウス盤のお話です。ノイマンの自然なアプローチは、昔と変わっていないようですね。


nice!(1)  コメント(10)  トラックバック(2) 
共通テーマ:音楽

nice! 1

コメント 10

古井戸

マーラーもブルックナーも、いいですが日本での演奏ライヴはご免ですね。。
CDに限ります。

http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-03-23-1
by 古井戸 (2006-07-30 13:26) 

stbh

古井戸さん、ご来訪とコメント、ありがとうございます。
音楽を聴く基本は演奏会だと思うのです。ただ自宅で気楽に楽しむとなるとCDになりますね。もちろん個々の出来栄えは一概に言えませんが、最近は演奏会の実況録音の音源よりも「練られている」と感じられるスタジオ録音を聴きたくなることが多いです。とはいえ、記録としてのライヴ録音もすばらしいものが多々あると思います。
私も演奏会でいやな思いをしたことがないわけではありません。芥川也寸志が説くように、「音楽の鑑賞にとって決定的に重要な時間は、演奏が終わった瞬間」ではあるわけですが、演奏直後の静寂をぶちこわすやつがいても、演奏の一瞬一瞬を奏者と共有したことが大事、と思うように努力しています(なかなか割り切れませんが)。
by stbh (2006-07-30 19:55) 

古井戸

作曲家(ギリシャ、。。バッハ以前、バッハ、近代、現代。。)は、演奏会で演奏されることを意図して曲を作ったでしょうか? 頭の中で、バーチャルに鳴らしていただけだとおもいます。 バッハなら楽長をしていた小さな教会での演奏をイメージしながら。出版されなくても演奏されなくても、満足したのではあるまいか。

楽団員をあつめて、音を鳴らし、音楽ホールで聴く、というのは、バッハの予測せざるところ、だとおもいます。 それで悪い、というのではもちろんありません。 要求条件はひとにより、時代により、さまざま、ということであるとおもいます。
by 古井戸 (2006-07-31 08:55) 

stbh

マーラーは、初期の交響曲は、何度かの演奏(会)を通じて改訂しています。これは作曲そのものに演奏が介在した例だと言えるでしょう。
音楽が例えば絵画と違うのは、作曲家と鑑賞者の間に演奏(家)が介在することです(自作自演など、例外はありますが)。楽譜はあっても、それを具現化する手立てを経なければ「音楽」にはならないところに、「音楽」のとらえ方が複雑になる要因があるのかもしれません。
by stbh (2006-07-31 23:37) 

古井戸

それは、マーラーの特殊事例ではありませんか?指揮をしていた、という。
楽譜を改訂するのは、近代以後の、作曲者の通例です。最終版が決定版となるかどうかは、別のことだと思います。ブルックナーなど、批評家や演奏家にからきしよわく、文句を言われると、ホイホイ、改訂してしまいます。
楽譜は小説と同じで既にひとつの作品。それを、舞台にしたり映画にしたりするときには、べつに、シナリオがいります。演奏会で演奏する場合は、指揮者による楽譜外の解釈を加えなければ演奏できません。わたしのように、楽譜を観て、感嘆したり、あたまのなかで音が鳴ったりしない人間は、演奏家、や指揮者という、巫女さんに頼らなければ、味わうことも不可能です。脚本も、演出家と俳優という テクに、たよらなければ、 再現できません。

楽譜はメモ書きであり、レシピ、であり、書かれざる部分により味がよくなったり、まずかったりもするでしょう。 演奏家、俳優、指揮者、演出家、というのも、artを構成する一部です。
by 古井戸 (2006-08-01 05:34) 

mozart1889

キャニオン盤のノイマン/チェコ・フィルのマーラー、聴いたことがないんです。録音も良さそうですね。聴いてみたいです・・・・が、廉価盤になってからにしようかな。
60年代のゲヴァントハウス管との9番は音の重心が低く、しみじみとした演奏でよく聴きます(ブリリアントの激安マーラー全集に入ってました。5番もノイマン/ゲヴァントハウス管の演奏でした)。
今夜はこれを聴いてみようかなと思います。
by mozart1889 (2006-08-02 08:21) 

stbh

古井戸さん、コメントありがとうございます。私は個人的に、「楽譜」は「戯曲」に近いイメージを持っていました。必ず(とはいえないかもしれませんが、原則として)別の「実現する媒体」を通して鑑賞者に伝わる、という点において。かかわるさまざまなものが「artを構成する一部」だというのは、おっしゃるとおりだと思います。
by stbh (2006-08-02 22:53) 

stbh

mozart1889さん、ご来訪とコメント、ありがとうございます。私も、ノイマンの最後のシリーズを聴いたのはこれが初めてでした。ユダヤ人とか、死期迫るとか、そういった足枷をはずした、音符=音楽を感じられたように思いました。
ゲヴァントハウスとの録音、第5番をLP2枚組で持っています。もう20年くらい聴いていないので、忘却の彼方です。レコードが聴ける環境が実現したら(ある程度の時間、私が家に一人でいる、ということなのですが)、聴いてみようと思いました。
by stbh (2006-08-02 23:03) 

ようちゃん

マーラーの9番、大好きです。私自身、今まで3回ほど演奏しています。
CDも一杯持っていますが、ノイマンのマーラーは、聴いたことがないのです。、今回の記事を読ませて頂いて興味を覚えました。チェコ・フィルの弦は評判ですからね、今度、機会があったら、買ってみようと思います。
追伸:関連記事のところに、先日行なったマーラー7番の記事が・・・嬉しいです。
by ようちゃん (2006-08-06 12:33) 

stbh

ようちゃん さん、ご来訪ありがとうございます。また、コンサートのご成功おめでとうございます。マーラーの第9番、3回演奏とはすばらしいですね。ひょっとして、アマチュア日本初演も出られました?
私自身、このCDを手に入れたのは比較的最近だったのですが、「チェコ・フィルの音色」を感じました。派手さや力強さはあまりありませんが、名盤だと思います。ぜひお試し下さい。
by stbh (2006-08-06 22:31) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 2

Rimsky-Korsakov/Capr..Cream/LiveCream2 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。