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Mahler/Sym6 [交響曲(マーラー)]

数日前の朝、車に乗ったときのこと。今回紹介する録音のテープを用意したものの、何気なくFMをつけたら、マーラー第6の終楽章をやっていた(!)。やや早めのテンポで、ケレン味のない、まっすぐですっきりとした演奏。テンシュテットやバーンスタインもいいけど、この曲は、こういう視界の広い演奏の方がわかりやすいかなあ、でもちょっと最後はあっさりしすぎかなあ、などと思っていたら、案の定(?)アバド/BPOでした。

最初から聴いていれば1本記事がかけたのに(笑)。まあ予定通りということで、今回はこれを聴きました。

マーラー:交響曲第6番「悲劇的」/亡き子をしのぶ歌/リュッケルトの詩による5つの歌

マーラー:交響曲第6番「悲劇的」/亡き子をしのぶ歌/リュッケルトの詩による5つの歌

  • アーティスト: ルートビッヒ(クリスタ), ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, マーラー, カラヤン(ヘルベルト・フォン)
  • 出版社/メーカー: ユニバーサルクラシック
  • 発売日: 1998/05/13
  • メディア: CD

第5、大地の歌に続く、カラヤンのマーラー録音の第3弾。今回は交響曲しか聴いていませんが、上のCDは「亡き子」「リュッケルト」を含んでいます。LP時代は「亡き子」が第5と、「リュッケルト」が大地の歌とのカップリングでしたっけ?第6番は1975年と77年の録音。想像するに大方75年にとったものを、どうしても発売できない部分があって77年に録り直した、という状況だったのではないかと(真相はわかりませんが)。

カラヤンのマーラー録音は1973年の第5から始まっているのですが、この年と次の年(「大地の歌」と上記2歌曲集を録音した年)に、同時進行のように新ウィーン楽派(シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン)の管弦楽曲を録音しています。カラヤンは、新ウィーン楽派の3人はマーラーの後継者である、と捉えていたのではないか、というのは考えすぎでしょうか。例えばベルクの「3つの管弦楽曲」なんか、ハンマーが入っていたりして、分厚いオーケストラ、行進曲調を中心とした変化の多いテンポ設定など、「無調」ということを除けば、マーラーとの共通点は多いと思います。

第6は楽章構成こそ古典的ですが、音楽は複雑で、特に約30分に及ぶ終楽章まで一気に聴くのは、演奏会場で無い限りなかなか大変です。魔術師カラヤンがどれだけこの交響曲を聴きやすくしてくれているか、どれだけ口当たりをよくしてくれている(むろん皮肉で)か、というのがアンチ・カラヤン派の意地の悪い聴き方かもしれません。

第1楽章冒頭は、やや早めのテンポから入ります。弦のキレはさすがBPO。カラヤン・レガートはあまり目立たないようですが、それでも流麗なのは、テンポの変動があまり大きくなく、また急激(スビトなんとか)でもないからでしょう。シェーンベルクに対してだったら良くあるアプローチだと思いますが、マーラーでここまでやると演奏者はかえって感情移入欲求不満でつらいかもしれませんね。

第2楽章も、決して早いほうではないのですが、遅いほうのテンポが主部のテンポとあまり違わないので、妙に早く、「あれっ」と思うところがときどきあります。通常は不気味に聞こえるコーダも、凄味とかそういう感覚は皆無で、淡々と美しい音楽が過ぎていきます。sfを必要以上に強調しないことにより、流れをできるだけ阻害しないようにしているのでしょう。

第3楽章も早めのテンポで、ルバートを極端に抑えた、ある意味ストイックな演奏です。クライマックスの音量はすさまじく、カウベル等の効果音もそれなりにごんがら入っているのですが、音楽がインテンポでぐいぐい流れるため、印象を刻む間もなく、走馬灯のように個々のシーンが過ぎ去っていきます。

第4楽章もアプローチは基本的に同じですが、さすがに他の楽章にくらべて多少テンポの動きがあるようです。ハンマーの音、特に1発目は「どこん」と木質のよい音がしていると思うのですが、あまりに思い入れなく鳴ってしまうので、ちょっともったいない。それでも、これだけテンポを変えないでクライマックスへの盛り上がりを作ってしまうのは、やはりカラヤンならではのアプローチではないでしょうか。コーダまで一気に持っていかれてしまいますが、最後のffの直前の「タメ」や、テューバ・ソロの「コブシ」は、さすがにもう少し効かしてくれても罰は当たらないと思うのですが。

私がいろいろな演奏を刷り込んでしまっているからかもしれませんが、こうやって何十年ぶりに(ちょっと)キチンと聴きなおしてみると、正直、あまりに流麗過ぎて違和感がないとはいえません。しかしカラヤンが、「マーラーもここまで磨ける」と見せて(聞かせて)くれたのは、マーラーに対するアプローチの多様性を示すよいきっかけになったのではないでしょうか。

こうやって記事を書きながら思い返してみると、まるで80年代以降の「グレート」のようなマーラーだったな、と思います。全体の流れが最優先になって、細部の起伏、輝きが足りない(というか、あるのだけれども見えにくくなっている)感じ。その意味では、新ウィーン楽派にもっと様式が近い、曲自体、細かい飾りが振り落とされてエッセンスだけになった第9をとりあげたライヴが、「カラヤンのマーラー」の終着点であったのは、ある意味、必然なのではないでしょうか。(最後の文章は後から変えました)


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