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Mozart/Requiem [声楽曲]

マーラー10番から、「作曲者死後の補作」つながりで、いまさらですがモーツァルトの最後の作品、未完の大作「レクィエム」。例の匿名の使者の話は映画「アマデウス」以前からレコードの解説などに必ず載っていましたし、借金の山だったこと、だれも立会いがいないまま葬られたこと(これは、当時としては常識的な方法だったという説もあります)など、モーツァルトの死にまつわる話の中で、「レクィエム」の作曲過程は狂言回しのように語られていました。

なんとか「レクィエム」を完成して作曲料を得なければならない未亡人コンスタンツェは、まず弟子の一人アイブラーに完成を依頼します。しかし彼はこの作業を半ば(10小節目、"Lacrimosa"のモーツァルト書いた声楽パートが切れた2小節後)で中断してしまいます。その後も何人かの人に依頼しては断られ、結局、別の弟子ジュスマイヤーが、アイブラーの作業を全部無視して"Dies Irae"以降"Lacrimosa"の8小節目までを補筆しなおし、"Domine Jesu"を新たに補筆し、"Lacrimosa"の残りと"Sanctus-Benedictus"、"Agnus Dei"を作曲し、"Communio"に"Introitus-Kyrie"の後半を転用して、曲を完成します。これが長いこと「モーツァルトのレクィエム」として親しまれてきたわけです。

このCDを入手したのは最近ですが、最初のアイブラーによる補筆についてはちょっと思い入れがありました。実はUniversal出版のスコアの解説に「最初は指揮者アイブラーに編曲を依頼した云々」と書いてあり、彼の編曲した"Dies Irae"の楽譜が1ページだけ付録としてついていたのです。トランペットやティンパニの音形がジュスマイヤー版とぜんぜん違っていたので、どのように聞こえるか聴いてみたいとずっと思っていました。その「アイブラー版」をやっと聴くことができました。

モーツァルト:レクイエム(ランドン版)

モーツァルト:レクイエム(ランドン版)

  • アーティスト: ヴァイル(ブルーノ), モーツァルト
  • 出版社/メーカー: ソニーミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 2004/11/17
  • メディア: CD

ピリオド楽器を用い、少年合唱を起用した1999年の録音。ただし女声のソリストは成人女性です。「ランドン版」と銘打っていますが、アイブラー版があるところはアイブラー版、ジュスマイヤーしかないところはジュスマイヤー、というのが基本構造になっているようです。なお、ランドンはハイドン研究で高名な音楽学者ですね。

ここ10年くらいでこの曲を歌ったり演奏したりした方、教えていただきたいのですが、最近はみんなこんなに早くやるのですか?私のようなベーム/VPOの刷り込みの人間だと、このようなしゃかしゃかした演奏は、最初はつらかったですね。"Introitus"なんか、「2/2だっけ?」と思ってしまう快速。もっとゆっくり、少しでも長く演奏したり聴いたりしていたいと思うのは、もうふるいのでしょうか。

さて肝心の「アイブラー版」の部分ですが、"Dies Irae"は明らかに良い、というライナーノーツのことばがありました。確かに、より迫力とめりはりのあるトランペットとティンパニのリズムは、曲想を際立たせる役割を果たしていると思います。"Tuba mirum"では「ラッパ」の話が終わってしまった"Mors..."の歌詞の裏のトロンボーンのソロはありませんし、"Rex tremendae"の2拍目の、合唱を先取りした管楽器の和音もありません。"Confutatis"のトランペットとティンパニは、ジュスマイヤー版(1、3拍)と反対に裏打ち(2、4拍)で入っていて、緊張感が増します。楽譜が無いのでこまかいところまで聴ききれませんが、ほかにもいろいろ異同はあるようです。

ただ、いかんせん"Lacrimosa"以後はジュスマイヤー版のままなので、中途半端感がぬぐえません。アイブラーは"Lacrimosa"のソプラノパートを2小節付け加えたところで、楽譜(モーツァルトの自筆譜)をコンスタンツェに返してしまいます。このわずかなアイブラーによる"Lacrimosa"の補作は、ランドンにも取り上げてもらえませんでした。その後、最後まで補筆というか創作する意欲(破廉恥さ?)が、ランドンにはなかったのでしょう。

ランドン版は、ドイツの音楽学者バイヤーに端を発する現代の学者の補作よりも、モーツァルトの同時代人(ジュスマイヤー、アイブラー、"Kyrie"の(合唱と重複する)管楽器パートを書いたフライシュテットラー)の補作を尊重したい、という意思表示のようです。それはそれで、ひとつの見解ではありましょう。"Sanctus"以下が駄作とはいえ、"Lacrimosa"の9小節目以降もそれなりに作曲しているわけだから、いちおう弟子の仕事だし、現代の人が新しく書いてもかなわないんじゃない?ということなのでしょう。

上で触れたUniversalのスコアには、"Kyrie"は全パートがモーツアルトの作のように書いてあったので、"Kyrie"のトランペットとティンパニを書いたのがジュスマイヤーだということを、このCDを購入してはじめて知りました。これでジュスマイヤー版で、"Kyrie"と"Cum Sanctis"の(同じ旋律の)フーガでトランペットとティンパニのパートが意味も無く異なる原因がわかりました。アイブラーが書いた編曲はまったく採用しなかったジュスマイヤーですが、師匠の書いたものにおいそれと手は出せませんからね。自分が書いたのなら、適当に書き換えたっていいでしょ?

レコードのときはA面ばかり聴いていたし、最初の自分が参加した演奏が"Introitus-Kyrie"だけだったので、極端な話、この曲はこの2曲で十分、というかここから先はマーラーの第10番全曲版に接するのと同じ気持ちで聴かなければいけないと思います。誰の補筆にせよ、「補筆」には変わりないわけですから。ブルックナーの第9交響曲のように、決して途中で終わるのは作曲者の本意ではないのだけれども、それがいちばん妥当な曲もあると思います。むろん補筆完成版が世の常識になっている曲も、トゥーランドット、バルトークの第3ピアノ協奏曲、ルル(これはまだ常識ではない?)等々いろいろあるのですけれども。

「現代の音楽学者による補作」の最右翼は、ピリオド楽器の元祖(?)ホグウッド指揮による録音で世に出たモーンダー版でしょう。ジュスマイヤーだけによる(と思われる)部分を切り捨て、残りの部分も「よりモーツァルトらしく」修正したもので、"Lacrimosa"の最後の"Amen"がフーガになっているのが特徴のひとつです。また、"Sanctus"他が生きている中でもっともジュスマイヤー版から遠いのは、最新?のレヴィン版のようです(未聴)。これらもそのうち聴いてご紹介しましょう。


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